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私が洗礼を受けたのは、1991 デュッセルドルフ「ノイスの教会」 にて。 ドイツ人宣教師「リーベンゼラ宣教団」より。
また、子供の頃、カトリックのスパルタ教育を7年間受けています。
何事も、主の導きあっての事。
昔、リーベンゼラの先生と、カトリックの方と・・・ある、福音自由の教会で祈り、学びました。
私は祖母、母、私と、三代目のキリスト者です。
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イザヤ書51−9。40−1。 エゼキエル書3−9。 マルコ14−38。 ルカ12−4。 ヨハネ14−18。 テサロニケ1、2−14。 テモテ2、1−14。 詩篇9−19〜20。51−10〜13。110−2。145−1〜2。149−1。
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主よ、私はあなたを信頼しています。
私はあなたに打ち明けます。
私の心のうめきを聞いて下さい。
どうか、哀れんで下さい。
私はあなたに対して、いつも素直でありたいのです。
私が弱きゆえの、内に増してくる罪を、どうか治めさせて下さい。
そして、あなたの導きにより、私を強めて下さい。
主の良き働き手となれますように。
ただ、あなたの為に。
それが、私の為。
私はあなたを信頼しています。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
感謝で始まり、感謝で終わる。
私たちはキリスト者です。
< 17・11・1997 > |
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私達、主に生かされたキリスト者は、イエス様から霊を頂いています。
すなわち、イエス様は親とも兄弟とも言えます。
でも私は、生意気では良くないと思いますから、イエス様を天のお父様と呼んでいます。
もちろん、イエス様が主の本体である事を理解した上での事。
主は、生きた家に住む。命の君に。
ですから息子です。
何事も、主の導きにありますように。
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この世に完全な人などいないでしょう!
私などは未熟、未熟。
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私は、主の導きにより生かされていますが、同時に義務もあります。
生きたキリスト者として生きる義務です。
抗生物質的役割。
これが、生きる資格?
でも、未熟、未熟。
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ミクロでの勝利をマクロに還元する。
信仰と行いは、大切な事。
未熟でも息子として生きる道。
小枝・小道。
< 3・3・2003 >
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我らの主は愛。
私の段階は、信仰の霊を与えられ、愛に生かされている「希望」にすぎません。
私には永遠の平和は創れません。
それは主がお創りになられます。
後の世の事です。
私は、千年の平和に挑戦しました。
裁きの日迄の、人類の最後のチャンスを。
主に生かされている間に、その願いを!
そして、その目標達成の為の楔を打ち込むまで・・・。
主の導きと共に・・・。
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愛を学んでいる私のような未熟者でも言える事があります。
愛には限界はありません。
敵はいません。
相手「組織」を良くする事は良い。
すぐれた競争相手は、自分の成長の糧となります。
更に相手を良くする事が出来ます。
この・・・繰り返しです。
<14.6.2003>
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聖書にこんな箇所があります。
「ヨハネ15章21〜22節。」
・・・・・それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
「ヨハネ16章12節」
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
「ヨハネ16章33節」
・・・・・わたしはすでに世に勝ったのです。
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我々キリスト者は促成栽培種ではありません。
でも、時が来れば実が生ります。
不思議な事ですが・・・息子として証明出来ます。
実力とは、そういう事でしょう。
本当に、自分でも不思議ですが・・・。
でも、まだまだ未熟者。
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また、こんな箇所が聖書にあります。
「エゼキエル書33章11節」
・・・・・神である主の御告げ。− わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。・・・・・。
<22.8.2003>
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