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無からは、何も生まれない・・・・・無。
神がいた・・・・・完全だから・・・・・いた・・・・・永遠に・・・・・いる。
永遠の神が、無限の努力をして・・・・・ある時、自らの知恵を・・・光を・・・表現した・・・真理 真実。
神には、永遠の経験がある・・・・・だからこそ、尊い。
信じるほどに・・・わかってくる・・・はっきりと。
神には、親は・・・・・いなかった。
妻、息子・娘・・・・・我らの主と共にあって・・・母・父と・・・創造された。
主は、キリストと共に、完全の上の完全。
神は父として、真理の産みの親。
聖なる存在。
24.9.1999
上記は、少し時間をかけ、想像しながら読む事をお勧めします。
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我らの主はイエス様
イエス様は主の本宅、本宮。
主「神」=「愛」はイエス様と共に、「愛情」を完成された。
私は、信じています。いや、確信しています。
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聖書では、エデンと地上は区別されています。
昔、サタンと、その使い達は天から追放されました。
エデンの空が天なのか?
{ヨハネの黙示録によれば、神の使いが来て、サタンは拘束される・・・千年の間。}
この世は、サタンに支配されています。
サタンは、地上に落とされる時、天の星の三分の一を落としました。
{日本神話や、ギリシャ神話・・・北欧なども・・・。その他の神話も・・・・・原因でしょうか?}
私は以前、人種の違いは、霊的な個性の違いと考えました。
また、霊の意志によって人型に進化したと。
もちろん、完全体ではありません。
サタンによって、汚されているから。
人間は、アダム直系ではない!?
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私はまた、次のようにも考えました。
人質という言葉がありますが、霊的に汚された星達・人間は、人質のような存在と同時にサタンの子でもあると。
神の悲しみの解決と、我らの救いの為に主は来て下さった。
我々の霊は浄化されなければなりません。
第二のアダムになる為に。 人の子に。
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国籍は天。エデンの住民。
この世では、自由。
サタンの支配下にはいない。
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裁きの日は、いつか来る。
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誤解なきよう。
ユダヤの民は、アダム直系でしょう。
でも、思い上がったら叩かれる。 これは、天のルール。
確かに、ダビデの子孫は優秀です。
私には、キリストがいる。
ユダヤの、前向きな嫉妬を引き出すべきか?
見守ろう!!
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イスラエルが、キリスト教国家になれば、すばらしい結果が待っているのに!!
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カオス から偶然に秩序は生まれません。
完全なる意志が必要です。
永遠の主・神を、人は理解出来ません。
ただ、教わる事は許されています。
信仰を与えられ導かれる。
人間は、救われるとどうなるのか?
「神の意志・・・知恵・・・聖霊」 が、不完全な人間に来てくださるとどうなるのか?
生きた乱数表?になるのか?
先輩たちは以前、サタンに勝利しました。天でも地でも。
ガラス張りの勝利は可能です。
< 2・11・2002 >
先輩達・神の家族は、高い次元で存在します。
高い次元の生きた乱数表、いや、それ以上・・・完全体。
では、見習いは、どこまで許されるのか?
神が求めているのは奴隷ではなく友です。
代理戦争には勝利しなければなりません。
人類は見られています。
< 3・11・2002 >
獣に負けてはなりません。 |
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ヨハネの黙示録12章。
3節。また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。
9節。・・・この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇・・・・。
ヨハネの黙示録20章。
2節。・・・悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇・・・・・・・。
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おわかりでしょう!
蛇という事は、過去形になっています。
神様が創造したのは、蛇であって、サタンとは聖書に書いてありません。
おそらく、蛇はエバを誘惑しただけでなく、力ある聖なる天の御使いを誘惑したのでは?
そして、霊的に同一化したのでは?
聖霊を汚す者は赦されない!
これは、キリストの言葉です。
サタンは赦されないでしょう。
竜は、蛇が力を得て進化した姿でしょう。
<30.5.2003>
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残念ながら、この世を支配しているのはサタンなのです。
その中で自由に生きるのは大変な事。
自由と完全は表裏一体でなければなりません。
真理の御霊は必要なのです。
主に生かされた働き手は必要なのです。
働き手が足りなければ、邪悪な時代になってしまいます。
安全な国際社会に向けて、世界中で連携プレーを!
主への祈りと共に。
聖職者の方々の健闘を祈ります。
<7・7・2003> |
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(ヨハネ14章・26節。)
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
(ヨハネ16章・13節。)
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。・・・・・・・。
(詩篇117篇。)
すべての国々よ。主をほめたたえよ。
すべての民よ。主をほめ歌え。
その恵みは、私たちに大きく、
主のまことはとこしえに至る。
ハレルヤ
<30・7・2003> |
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<勝利の子>
生きたキリスト者なら、本来一人でも戦い抜けます。
不完全な組織相手など問題ではありません。
世界の兄弟姉妹には還元したいと思います。
持っている者は更に与えられます。
連携・発展型 ビッグ・バン・アタック の日は近い。
<自由の子>
宗教って何でしょう?
原点に返れば、それでいいのでは!?
宗教の枠を超えて真理を追求してみればいいのではないでしょうか!
我々キリスト者の場合は、元々宗教などという枠には、はまりません。
原点の直参です。
我らの場合は、何が正しいか? 各自・自分で判断します。
主の導きと共に。
<知恵の子>
私は、基本的に他人の信じる道を侮辱したりはしません。
キリスト者・信仰の霊を与えられた者は繊細な性質をも持ちます。
のん気な私でも・・・。
ありがたい事です。
未熟で・特に学ばなくても、カルト組織の異常さには本能的に気がつきます。
学びが進めば、なお更です。
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優秀な者は世界に沢山います。
しかし、心の領域はどうでしょう?
相手の良心を誘導し・高め・成長させる事は、我々キリスト者の伝統です。
解放・教育・導き・・・超自然体です。
以前私は、大人の大人の子供と言う表現をした事がありますが・・・大人の先に更なる成長もある。と言う事です。
情報処理の技術という表現は適切ではありませんが「単なる技術では無い」、心の偏差値を高める事は、真理を学ぶ為の基本です。
それでこそ、更なる成長が出来ます。
真理の御霊が来てくだされば、知恵は姉妹・悟りは身内の者。
サタンと互角に戦えます。
いや、負けません。
<平和の子>
これは最終試練です。
計画は主に委ねました。
箴言16章・33節。「・・・そのすべての決定は、主から来る。」
リバイバルも。
<10・8・2003>
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義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。<ペテロ1−4−18>
わたしに向って、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。< マタイ7ー21>
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。<コリント2−5−13>
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口ずけしなかった者である。<列王記 第一 19ー18>
・・・・・・・
これは、リバイバルの一つの目安になると思います。
私には聖書で好きな箇所は沢山あります。
と言うより、その時々に示される箇所が、また新しい。
聖書は確かに生きています。
素直に成長が許されると、神の家族は霊的に親子関係ですから、イエス様の為に用意された箇所が他人事ではないと感じます。
「イザヤ書61章」
・・・・・・・・・。
捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。
彼らは、義の樫の木、
栄光を現す主の植木と呼ばれよう。
・・・・・・・・・・・・・・。
<24・10・2003>
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これは難しい。
我らの教義での問題では特に。
成し遂げた者はいないでしょう。
素直に切り開いて行くのみでしょう。
主の導きと共に。
<ピリピ人への手紙 3章 13〜14節>
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る為に、目標を目ざして一心に走っているのです。
<詩篇 37篇>
悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、
青草のように枯れるのだ。
主に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
・・・・・・・・・・。
<24・10・2003>
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私が受洗したのは、成人してさらに学びの後の事。
洗礼を受けた後は確かに変わりました。
でもこれは単なるスタートにすぎません。
この世の「支配者・サタン」に負けない者になる為には、生きたキリスト者になる事が必要です。
私はそう思います。
これは主がお決めになる事です。
受洗後の、個人の努力も関係すると思います。
私たちは主の導きにより、聖書から学び、聖書と共に生きています。
それでも、やはり主がお決めになる事です。
これが第二ステップ。
証しで判断出来ると思います。
証しにもいろいろあります。
イエス様の宣教命令をどの様に受け止めるかは、個々の徳(自主性)の問題だと思います。
(・・・・・・自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。)「 マルコ8章ー34節」
・・・更なる証し・・・更なる賜物・・・更なる証し・・・。
継続は力。とはこの様な事だと思います。
その後は、証し人としてこの世に強く楔を打ち込む為の人生・バトンリレーだと思います。
また、<なんでもあり>とは何か?
それは、本人が会得して行く問題だとも思います。
私はそう感じます。
イエス様の教えの本質を知る事が許された者は幸いです。
私はそう思います。
私は聖書「新改訳」を母とも妻とも思っています。
また、主にあって自由に判断する個性も大切と思います。
神様が求めておられるのは奴隷では無く、友です。
我々は、主に拾われ導かれ成長する為に選ばれた養子と考えます。
チャンスを与えてくれた主に感謝します。
<13・11・2003>
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信仰は、主から与えられる霊です。
自分免許ではありません。
また、成長の為の試練は「試みではない」誰にでも用意されていると思います。
私には私の十字架があります。
公義の小道、なればなり。
<15・11・2003>
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